昭和46年01月30日 夜の御理解
お夕食を終わってから、あの休ませて頂いてとったらこんなお夢を頂いた。妹達が、あの親子で月の世界に旅行に行ってるげなちゅう、それであのあちらのあれがなんか是を持つと聞こえると言うて、姿は見えないけれど聞こえるげなと言うので、丁度電話機の様な物ががありますもん、先生ちょっと聞いてごらんなさいち言いますから、丁度聞きまいしたらちょうど妹の声が聞こえてきよっとです。それがもう何と言うで。
(音声切れ)
聞いたことがない、もう喜びと言おうか、何と言うでしょうかね。もう何ともかんとも言えん様な、その妹の声に間違いがないです、喜びの声が聞こえてくるとですよ、その電話線の様なもんを伝わってから、姿は見えないんです。それで目が覚めた。ちいと私あの、信心とはですね、結局まあ、あの世ではない、だから月の世界というのは、違った世界、いうならば、示現の違った世界
(音声切れ)
私信心にはねもう絶対その示現の違った世界に住むことの、住めれる所まで信心を進めなければ、信心の値打ちはないです。ただ普通でですね物の見方が、例えば病気なら病気に見える。困った事なら困った事が、困った事として見よるいうんだったら、もう値打ちはないです。そこから只助けて下さいというだけの事。ですからその問題がですね所謂信心するものは肉眼をおいて心眼を開けと仰るが、その心眼を開いた世界、示現の違った世界物の見方が一つの事でも、信心のない者は悲しいこと。
ほんなら信心が有る者が、今朝の御理解頂くとね、神の形は化粧してという、あの本当の事がわからないからという、その本当のことがわかったら、むしろ有り難た涙がこぼれるほどしの有り難いことを、信心のない間薄い間は困ったことというて、涙を流してるんですからね。ですから示現の違った世界に住み替えの出来れる所までの信心、又は修行、信心して本心の玉を磨かせてもらうことによって、肉眼をおいて心眼を開かせて頂く世界というものを、開けよと。
ほんなら妹たち夫婦がじゃない、親子が示現の違った世界に住んでるとは思いませんけれどもです。どういうわけに妹たちを御夢の中に使われたか、私もようと分りませんけれどもとに角その笑い声というものが、くったくがないというか、喜びいっぱいというかもう何ともかんとも言えない、その笑い声が聞こえてくるですよね。そういう例えばいつもが素晴らしい、有り難いの声を発せられると言うかね、いつも心の中にやれ勿体無や、やれ有り難や、と言える様な心の状態で生活出来れる世界。
それを私は示現の違った世界、信心の本当の信心解っていくものの、もう一つの世界。それはいわば今日は私は月の世界という風に、夢では頂いたけれども、これは違った世界という意味だと思います、あの世という意味ではない。だからこの世の中にですもう一つの世界がある、それを肉眼の世界と言う。いうならば本当の世界、そこには有り難い勿体ないだけしかない生活が出来れる世界があるということをね、今日の御夢の中から感じさせてもらいましたですね。
どうぞ。